2015年10月31日土曜日

ネガティブなセルフイメージを変えたい 2

アサーティブ


私なんか愛されるはずがない
私なんかにできるはずがない

このように考えていても、その成就を願っていないわけではありません。

「死にたい」という人に限って、「死なない」と日常的に言うのと同じ感覚です。
「死にたい」という意味は「もっと楽しい暮らしがしたい」というように翻訳できます。

もし、自分の口からこぼれた言葉が「死にたい」ではなく「もっと楽しい暮らしがしたい」と言い直し、その言葉を自分の耳が聞いたらどうでしょう?

次のステップに進み、「では、どうしたらいいかな?」「なにか楽しいことはないか」とサーチしていきます。

「私なんか愛されるはずがない」ではなく「私はあの人を愛している」だったらどうでしょう?

「私なんかにできるはずがない」ではなく「私もやってみたい」だったらどうでしょう?









自分の心に正直になる。素直になれば解決することが大半なのです。

「私なんか愛されるはずがない」と言ってる限り素直になれません。自分の責任で行動しょうとしません。「私なんかにできるはずがない」も同じです。自分の心に素直にならないで、願望を達成したいとなると、自分以外の人に達成してもらわないとできません。

誰かに「依存」するということなので、その責任も他人に移ってしまいます。
これでは他者のせいにして暮らし続けるしかありません。自分が自分を生きないということです。自分を他者に預けて生きるということです。
そこで生まれてしまうのが執着心です。

執着心とは自分が役割を果たさなかったことへの未練です。だから成功の対極にある失敗が痛すぎるのです。

自分がベストを尽くしてダメだった場合には、未練は残りません。諦めがつきます。諦めがつかないのは「こだわり」を持たずにやり過ごした場合です。諦めがつかない正体は執着心です。

「私なんか愛されるはずがない」「私なんかにできるはずがない」と思いながらその成就を他者に依存した上で、「結婚してくれなかったあなたが憎い」、「それを成し遂げるようにしてくれなかったあなたに怒りを覚える」というプロセスと結果を他者の責任にした怒りが執着心なのです。

このような「在り方」は子どもにはよく見かけます。子どもの場合には親に依存しなければ生きていけない存在なので、ある一定の理解はできても、これが30歳になって、60歳になってというと事情が変わってきます。

悩み、苦しんている人のほとんどが、この状態です。

ただし、気をつけてほしいのは、自分の役割の限界です。もし相手も依存するタイプの場合、役割の境界が混乱してきます。いわゆる「共依存」の場合、どこまでが相手の責任で、ここからが自分の責任と分けにくいので、いつまでも執着してしまう危険があります。
これについては、後で説明します。

その前にアサーティブについて説明します。

アサーティブとは、アサーティブとは積極的に自己主張することですが、その意味は、自分が責任をもって、積極的に自己主張すること。つまりは実現したいことを自ら引き寄せて実現することです。「自ら引き寄せて」がアサーティブの本分なのです。

愛や平和というと、誰でもが大切なことだと認識しているので、それに逆らうことはできません。しかし愛や平和はじっとしていて実現するものではありません。みんなが同じ価値観で生きていないからです。こんな当たり前のことでさえ一筋縄ではいきません。

つまり、何をやっても難しいのです。その上で「実現したいことを自ら引き寄せる」のは大変なのです。自分が、実現したいこと、そのものになるくらいの覚悟なければできないのです。それを他者に依存して他者の責任して非難するという「在り方」が尋常ではありません。私が言いたいのは、だからとことん「こだわり抜いた上で失敗を受け入れてもいいじゃないか」ということです。こだわり抜いたという点ですでに成功者だからです。結果ではなくプロセスです。そしてプロセスを正しくやり抜けば、100%とはいえませんが、自然と成功に辿り着くのです。



ネガティブなセルフイメージを変える











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